友好都市締結

Deshima

  • ライデンと長崎の交流200年以上。

1641年以来、オランダ人は長崎出島の商館に出入りし、オランダと日本の交流は1600年にデ・リーフデ号が漂着してからじつに400年以上に及びますが、ライデンと長崎の交流は、フィリップ・フランツ・フォン=シーボルトが現れるまで、とくに目に止まるものではありませんでした。シーボルトは1823年、出島に到着しています。シーボルトの派遣目的は、医官としての職務を果たすことのほかに、可能な限り日本についての情報を収集するというものでした。さらに、日本との貿易促進に繋がる情報、日本の政治システムについての情報収集も課されました。出島の商館員には出島を出ることは許されませんでしたが、医官シーボルトは別でした。地元の有力な役人の手当をしたことで、長崎に鳴滝塾を設立することが許されました。また、病人を訪れ、治療することも許されました。シーボルトは出島に到着するや否や、医者や本草学者らと交流を持ちました。彼らはオランダ語を学び、蘭学者と呼ばれました。鳴滝塾は瞬く間に学術交流の場となりました。そこでは講演が行われ、議論がなされ、シーボルトは西洋医学の専門家として、認識され、尊敬されるようになりました。そしてオランダ語は、西洋においてのラテン語と同様に、日本では学術の共通語となりました。シーボルトは1830年、オランダに戻ります。彼の蒐集品は当初、ライデン、ヘント、アントワープ、そして、ブリュッセルに分かれて保管されていました。1832年、シーボルトはライデン市のラーペンブルフ19番の居宅に落ち着くことを決めます。そしてその年から、彼はコレクションを一般に公開し始めます。世界最初の日本博物館はこうして1832年6月15日、ラーペンブルフのシーボルトの居宅で開館したのです。

Ondertekening Leiden Nagasaki 01

  • ライデンと長崎の交流未来へ

現在でも、ライデンと長崎の交流は活発で、それが2013年2月の友好都市締結に繋がりました。ライデンにおいては、シーボルトを冠とするライデン・長崎の関係をもっとも顕著に表しているのが、日本博物館シーボルトハウスの存在です。また、ライデン国立民族学博物館、ナチュラリス・バイオダイバーシティセンター(旧称:国立自然史学博物館)でも、シーボルトのコレクションを見ることができます。ライデン大学では、J.J.ホフマンが1846年から日本語学・中国語学を教え、1855年には教授職に就きました。現在、日本語学科はライデン大学の人文学部の中ではもっとも大きな学科の一つであり、シーボルトハウス近くのアルセナール通りにあります。また、シーボルトの伝統である医学の面でも、ライデン大学医学部と長崎大学医学部は今日まで変わらず交流を繋げてきています。さらに両市の間には活発な企業交流も見られます。

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